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こどもにとっての言葉の役割

 言葉とは、大人にとってもこどもにとっても重要な意味を持つものである。われわれ大人は何かを伝えるコミュニケーションのものとして普段から使うほか、ひとつのものの説明や、それを定義する際にも使う。広く使われている言葉というものにはふしぎな力がある。特にそれはこどもに顕著に現れていると私は考える。

 「ありがとう」、「ごめんね」などごく当たり前な挨拶言葉、これらの言葉は大人よりもこどものほうが良く使う気がする。コミュニケーションに欠かせないこの挨拶言葉だが、言い換えようと思えばいくらでも種類はあるだろう。しかし、こどもは基本的なものしか使わない。それには理由がある。知らないからだ。言葉というのは語彙能力の差があると、表現が違うよう感じることがある。だが、それはどちらがいいというわけではないと思う。こどもは語彙能力が低い。それは経験が少ないからであろう。だけど、そのかわり核心に触れるものがある気がする。ときどき、ドキッとさせられるようなことがあると思う。きっと、余計なことを考えず直感で言ってるときがそうなのではないだろうか。何も知らない故に、なにも言葉で飾ることはない。つまりは、むき出しの感情なのではとも考えられる。だけど、感情というのは言葉に表すのは難しい。気持ちという抽象的なものを言葉という具体的なものにするからである。そこに表情というものが加わることによって、また人は受ける印象が違うのではないだろうか。だが、表情というのは結局のところ多少は作ることが出来てしまう。大人は社会性などを身に付けているため、場にふさわしくない言動、態度というのはとるべきではないということを知っているからだ。それに対してこどもは思ったことを思ったとおりに言う。しかも、表情も気持ちを忠実に表すことが多い。その表情と飾らない言葉というのはとてもいい組み合わせなどだと思う。等身大の自分を表すことの出来る言葉というのがこどもの言葉なのかもしれない。これらのことは幼児から小学校中学年あたりまで当てはまると思う。

 では、乳児などのあかちゃんといわれるこどもたちにとって言葉はどういうものなのだろう。私達は、言葉には意味を付けて使っているがあかちゃんにとっては言葉単体で意味を成すものかというと難しい。しかし、意味がないわけではない。最初は、声を発するより前に、泣き声として自分をアピールする。それがだんだんとうめき声のようなものに変わる。あーとかうーとかのような喃語は、泣き以外での赤ちゃんからの初のアプローチであるといえる。これは、ある種赤ちゃん語という言葉なのではないだろうか。母親と赤ちゃんの間に形成された愛着が成り立つ関係のみで成立する言葉、そんな気がする。その後、片言の単語や二語を組み合わせた言葉を発する。それらは、赤ちゃんが本能的に知っているというわけではない。では、なぜしゃべるようになるのか。それはもちろん、母親や周りにいる人、テレビ等からの言葉を聴いてまねするからである。赤ちゃんは生まれてからではなく、おなかにいるときから声や音を聞き、母親や兄弟の声をも聞き分けるとさえ言われている。それが本当かどうかはわからないが、もしこれと同様ののことが出来るなら、意味はわからずとも音により常に同じことを言ってるわけではないということはわかってるかもしれない。そうすると、もしかしたらだが、言葉というのは母親やわれわれ大人から赤ちゃんへと伝わっているものが何かあるのではないのだろうか。もちろん、言葉の意味はわからないだろうが、声のトーンや話す速さなどでこちらの意図や感情のようなものを肌で感じているのではないかと思う。

 以上のことを踏まえると大人こどもに関係なく言葉はコミュニケーションのために必要な欠かせないものであることは変わりないようだ。その、大人とこどもは同じ人間であるがある種違うものであるとも考えられる。言葉という面から見れば語彙能力云々もあるが、肉体的にも精神的にも未成熟なのがこどもなのだから、違うのは当たり前であろう。だが、その違うこどもと大人をつなぐことが出来るのは言葉である。そして、その言葉はコミュニケーションから発展して信頼関係を築くことが出来る。たとえばなにかをしてあげるという約束、これはしてあげるというだけでなく、約束を守るという点でも信頼は築けると思う。ほかには、お礼などもあげられると思う。先述の約束を果たしてもらった際に、一言「ありがとう」というか否かで、何かをしてあげた側が感じるものは違うと思う。これらは保育者や先生という立場の大人と、生徒や園児というこどもの立場において成立しやすいと思う。では、母子父子、つまりは親子間での信頼関係とは何だろうか。それは愛着、つまりはアタッチメントではないかと考える。最初の頃は言葉を使わずとも、なにかをするということで形成していくが、だんだんと成長するにつれ、言葉を使ってこどもは何かを訴える。幼児くらいからこういうことをするが、それに対して、何らかの反応があるかないかで大きく違うと思う。たとえば、何かをして欲しいとこどもがうったえる。そのことに対して、その何かを上げることは要求に応えたことになる。逆に、その何かをあげないことも考えられる。そのとき、無視したり、ダメと簡潔に断ってしまうと、こどもはあまりいい気分はしない。しかし、なぜダメなのかを簡単にでも説明すれば、納得せずともその子には、言葉を通して、こちらからの意図を伝えることが出来た。つまりは、言葉によるコミュニケーションが通じたわけだ。そうすることにより、要求には応えられずとも、こどもとの関係・つながりは続き、次へとつながる。これが言葉によるアタッチメントの形成のひとつじゃないかなと思う。

 言葉というものは、捕らえ方ひとつでさまざまな意味をもつ。ただ単に、決まった受け答えをするのであれば、それはロボットにでもプログラムをインプットして反応させればいいかもしれない。しかし、それではいけない。人は気分によって口調や語尾、言う内容ですら変わることがあるからである。そうやって変わることがいいことか悪いことかはここでは追求しないが、そういう変化というのも人が使う言葉だからこそ起こりうるのではないだろうか。同じ人でも変わるこの言葉、やはりいろいろな言葉を聞く、見るというのは重要ではないか。こどもの語彙能力は低いと最初に書いたが、その低いというのは決して欠点ではない。むしろ利点であるとも考えられる。なぜなら白紙の状態には色々なものが書けるからである。つまりは、いろんな言葉を覚えることが出来るのだ。さまざまな人と会話し、聞いて、感じて、学んでいく。こういったコミュニケーションがこどもには特に必要だと思う。そしてこういったことが出来る環境を作るのがわれわれ大人の役目ではないだろうか。

 つまりこどもにとって言葉はコミュニケーションのツールであり、われわれ大人とこどもをつなぐ橋であり、われわれ大人に近づくためのものなのではないかと私は考える。


ゼミ選考にて提出したレポート。

なんだかレポートは途中で要らなくなったらしいが、書いてしまったので出したら読んでくれた。