最近思うこと。
いまさらながら、子どもも一人の人間である。
いや、軽視してたつもりはまったっくなかった。子どもの意見も聞かなきゃとか、ありきたりなことを考えてはいた。
だけど、実際自分の行動を振り返ってみた。
本当にあってたのかな、と思う。
ほかの先生が、言うことを聞かない子といって、何人か名前を挙げることがある。
たしかに、いったことと反対のことをわざとやったり、何度言ってもなおらない子とかもいる。
それは、普通のことなんじゃないか。
子どもの自己表現であって、それを良いか悪いか教えてあげることが必要だと思う。
バイト仲間のある人が、子どもってある意味残酷ですよね、と言ってきた。
確かに、大人の倫理・前提から残酷に感じることもある。
思ったことを平気でいうし、うそだってつく。簡単に人を裏切ったりもしてしまう。
それで傷つくのは、わかる。
だが、残酷なのは今見てる子どもたちだけだろうか?
自分や、自分の同年代の人が彼らくらいのときはどうだったのか。
そういうことを考えてみて欲しい。
例として、自分を挙げてみる。
自分は、昔からやりたいことをどうにかしてやろうとする性質がある。
なにかを見つけたらほかを犠牲にしたりする。
だから、遊びたいがために片付けたフリをしたり、ゲームがやりたいからトイレにこもってゲームボーイをやったりしたこともある。
そういったものを、今、客観視してみると、何度いってもやめない悪い子・問題児に部類されると思う。
もしかしたら自分は特殊だったのかもしれない。
だけど、こういったことをやっていたことがない人はいないと思う。
つまりは、子どもは我慢だったり自己表現がうまくできないのだ。
遊びたいものがなければ、その辺を走り回って自分の暇を遊びに変えてしまう。
子どもは遊びの天才とよく言うが、このことだろう。
だけど、部屋で走り回れば当然先生は子どもをしかる。しからなければならない。
そのときに、ただ叱るのではもちろんだめ。
怪我するから走らない、部屋は走るものじゃないと教えるのも大事だ。
だけど自分は、じゃあどうしたら良いかを考えさせる・一緒に考える・興味を持つ遊びを提供するなどをしていただろうか。
大人がなにか条件を制限されたとき、考えるということをする。
それは考えればいいと知っているから。
子どもと大人の違いは経験の差だとふと思った。
考えるということを知っている大人は、それを教えてあげるべきなのかな。
言う事を聞かないなら、言う事を聞きたいように仕向ける。
このことなら子どもはいうことを聞く、むしろ自分から喜んでやる、そんなことを考えなければいけない。
そんな風に感じる。
あとは、実際どこまでできるか。
これをやるには、しっかり観察しなければならないし、子どもをわからなければならないし、子どもと一緒に遊べなければいけない。
ここから自分は先に進めるか。
がんばってみたい。