保育日誌(2007/05/24・25・26)
変則日誌です。
むしろ反則日誌です。
今回きりなので許してください。
この三日間の流れは、
24日(木):通常の保育
25日(金):17:30~19:00の変則保育
26日(土):土曜保育
だった。
木曜日・金曜日のは○
土曜日は×
木曜日は割愛。
金曜日は、人数がいないというのと、ボランティア先にて、ゲームをその日提供するということもあり、その時間しか入れなかったのだ。
土曜日は、空回り。
おやつの時間隣の部屋で片づけを見てたら、部屋を脱走して走り回る子どもが。
なんでそういう雰囲気になったのかは不明。
結局収まったのがかなり遅くなり、どうにかこうにか。
それに関しては後ほど。
で、ここ数日、携帯から書かなかったのには理由がありまして。
書きたいことが多すぎたのですよ。
ということで、続きからはまとまるのか不安ですが、今の思いを書きたいと思います。
さて、本題。保育というよりむしろ、現場で思ったこと。
ボランティアのをなぜやるか?とボランティアの動力源って、おんなじだと思いませんか。
動力源は情熱という話をボランティア先にいる先生に言われました。
「情熱」
その情熱は、時に絶えそうにもなるし、時には燃え盛るときもあるだろう。消えそうなときは、いかにして燃やすか。難しいものだ。
温度差というものも火にたとえることが出来る。
大きい火や小さい火。火種の大きさや、風に吹かれて消えそうな時だってある。
そんなときどうするのか。
仲間ってこういうときに必要なのかな。
うちのサークルでの活動では、仲間で助け合えてるのかな。
以前、もう卒業した先輩と、もめた話を書いた。
そのときに話したボランティアをやる理由。
ボランティアの施設側の言い分。
いろいろ聞き、いろいろ考えた。
それで出た答えは、自分。
自分を相手に認めさせる。自分という人間がいる、毎週何曜日にいると、子どもが認識して待っている。
待っててくれた子どもたち遊び、楽しみまた約束する。
自分が満足できるように、根気強く続けることが大切なんじゃないかなって思う。
そんなことを思う。
話は変わって、怒り方。
子どもがだれかをたたいてるのを見たとき、あなたは怒りますか?
大抵の人は怒るだろう。
では、木の上に登っている子をみたときあなたは怒りますか?
自分は注意します。
けど、注意するかしないかはその人の勝手です。
落ちたときに責任を取る、落ちるか落ちないかを判断し、見ていられるなら注意をするかは、変わってきます。
自分は、今の状態で木登りをされても、判断しきれないので、注意します。
では、食事中に保育園児が走り回っていたとします。
あなたは注意しますか?
絵本を読んでいたときに園児が扉あけて出て行くのをみて、あなたは注しますか?
上の二つ。注意しないって言うのはどうなんでしょうか。
一般的な子どもの教養として、やってはいけない事を注意するのは保育者の役目なのではないでしょうか。
怒って嫌われるのではないかなどと、心配するのはどうなんでしょうか。
どうにも、腑に落ちない。
ただ、感情で怒るのならそれはお門違い。けど、子どもにやってはいけないことを教えるために、怒るというのは、しかも口で言うのならなんの問題があるのでしょうか。
うまく言葉に出来ませんが、最近良く思うもやもや。
もうひとつだけ違う話。
立場。立ち位置とも言うかな。何事にも自分のポジションがある。
上に立つもの、下に立つもの、縁の下の力持ち。
自分の能力に合わせてどこにたつか、また状況に応じてどういう風に自分が動くか。
そういったものを考えるようにしてるのだが、自分の能力を超えた立場に立たねばならないとき、どうするべきなのだろう。
見渡すとそれしか方法が浮かばない状況。どうにかして、周りをうまく使い抱え込まないようにしたい。どこまで頼っていいのかは不安だが、どうにかこうにかがんばりたい。
なんかうまく文に出来てないけど、最近もやもや悩んでる。
ほかにもいろいろあるけど、それはまたの機会にでも。
無事解決したならば書きたいと思う。