良かれと思って伝えることの危険性
相手の為を思い伝えたが、とても深いそうな顔をされた。
こんな経験はないだろうか?
私はあります。
そして、反対に言われてむっとしてしまったこともあります。
今回はそのことについて考えてみたいと思います。
目次
そこに相手の気持ちはあるか?
とつぜんですが、あなたは相手に感情があることを知っていますか?
当然知っていますよね。
私もあなたもみんな人間である以上感情当物を持っており、人格がある。
でも、
人は、それを忘れてしまうのです。
自分が伝えたその言葉、タイミングは自分の都合だけで伝えられていないだろうか?
自分を正当化する理由だけを固めて、相手がいま何を考えているかを、意識しているだろうか?
それはあなたのエゴではないか?
伝えたい気持ちがあるのは、間違い無いだろう。
ただ、言いたいだけの感情論や、八つ当たりについては論外だ。
ただ、相手を思うあまり今の相手の状況を考えないというのはあなたのエゴ・独りよがりになっていないだろうか?
私たちが忘れがちなのは自分とあいては赤の他人ということだ。
どれだけ相手のことを分かったつもりでも、完全に理解することは難しい。
それを私たちはついぞ忘れてしまう。
相手が良くなってほしいと言う思いに相手の感情は含まれているか?
自分は、あなたにこうあって欲しい。
この感情は持っているでしょう。
しかし、それを言われたときの相手の感情を想像したことあるだろうか?
相手が、今置かれている状況をどう考えているのだろうか?
伝える言葉をどれだけ気をつけても、相手の感情を加味しない話は、伝わる可能性も下がってしまう。
必要なのは、相手の感情を含むということだ。
主語を私がではなく、私たちがと言い換えることなどもここにあたるのだろう。
まず理解に徹し、そして理解される
7つの習慣で有名なスティーブン・R・コビーによれば、まず理解に徹し、そして理解されるとあります。
理解して欲しいという可能が強くなる私たち。
「なんで分かってくれないんだろう」
この気持ちを一旦置いておき、
「あの人はなんでこう思ったんだろう」
と考える癖をつけるといいのではないでしょうか?
補足
先日、上司から良かれと思って言われたことがこころにもやもやと残っていたため書いたメモがきっかけでこの記事を書いた。
以前は、なぜこんなことを言われなくてはならないのだろうと、自分が言われてしまったというう感情や自分が主語での感情が先立ってしまっていた。
今回は、言いたいことはわかるけどこうしてくれた方が嬉しいと思うことも含めて書いてみた。